自動運転バスが走る。
https://www.kobe-np.co.jp/news/tajima/202610/0020893219.shtml
それは、技術の進歩を感じさせる光景だ。けれど、バスが走ること自体をゴールにしてしまうと、少し物足りない気がする。
自動運転バスが走る。その先に、どんな町をつくるのか。
最近、そのことを考えている。
城崎温泉には、歩きたくなる「道中」がある
城崎温泉を歩いていると、そぞろ歩きという言葉がよく似合うと思う。
外湯をめぐる人がいて、旅館があり、店があり、川があり、柳がある。歩いている途中にも、見たり、立ち止まったり、誰かとすれ違ったりするきっかけが続いている。
歩行者空間化や循環バス、ベンチといった仕掛けも、もちろん大切だ。ただ、それらだけで、そぞろ歩きが生まれているわけではないだろう。
城崎には、歩く人を受け止める街の「厚み」がある。
車が通るためだけの道ではなく、人が歩き、店先に立ち寄り、川を眺め、少し休む場所にもなっている。道路が移動のためだけでなく、滞在のための空間にもなっている。
歩きたくなる道は、舗装を変えたり、車を減らしたりすれば、すぐにつくれるものではない。歩いているあいだに何かと出会える。その「道中」があるから、歩くことが目的の一部になるのだと思う。
縮退する街に、同じ厚みを取り戻せるのか
ただ、城崎温泉の姿を、そのまま縮退地域の手本にすることはできない。
すべての地域で、旅館や店を増やし、人を呼び戻し、かつてのような街の厚みを再現するのは難しい。店や公共施設が少しずつなくなり、人の暮らしが広い範囲に分散していく。歩いても、次の目的地まで長い距離が続くこともある。
それでも、縮退する街にできることはあるのではないか。
街全体を昔の姿に戻すのではなく、薄まった街の中に残っているものを、自然と「真ん中」に集めていく。交通政策も、そのための仕掛けになりうると思う。
公共施設や買い物、医療、文化、交流の場などを、どこか一か所にすべて集めるという話ではない。地域の中に小さな「真ん中」をいくつかつくり、それぞれを交通で結ぶ。人が集まる場所をつくり、その周りで歩いたり、過ごしたりできる範囲を育てていく。
自動運転バスも、人を目的地まで運ぶだけではなく、地域に残っている点と点をつなぎ、小さな「真ん中」へ人が出かけるきっかけをつくる。その移動を支える役割を担えるかもしれない。
都会の2kmと、田舎の2km
同じ2kmでも、都会の2kmと田舎の2kmは、歩くときの感覚がずいぶん違う。
都会では、店や建物、人の気配が続いていて、気づけば距離を歩いていることがある。城崎にも、歩く途中に次の景色や立ち寄り先がある。
一方で、田んぼの中の2kmや、車が走り抜ける道路沿いの2kmは、歩くことそのものが目的にならないと、長く感じる。歩いてくださいと言われても、道中に何もなければ、なかなか足は向かない。
大切なのは、ただ「歩ける距離」をつくることではないのだと思う。
バスを降りた先に、小さな広場がある。少し歩くと店や公共施設がある。ベンチがあり、木陰があり、誰かに会うことがある。そうした場所がまとまっていれば、同じ距離でも歩く意味が変わる。
街路樹は、店や観光施設のような目的地ではない。それでも、木陰や季節の変化をつくり、少し立ち止まる理由をつくる。ベンチを置ける場所にもなり、「何もない道」を「少し歩いてみようと思える道」に変えてくれることがある。
街路樹一本で街の問題が解決するわけではない。それでも、道中に小さな価値を重ねていくことはできる。
移動を、ただの移動で終わらせない
自動運転バスの実証実験というと、どうしても技術に目が向きやすい。安全に走るか、決まったルートを運行できるか。そうした確認は必要だ。
けれど、走行できたかどうかだけでは、地域にとっての成果は見えにくい。
バスが来たことで、これまで出かけにくかった場所へ行けるようになったのか。降りたあと、少し歩いてみたくなったのか。道中に人と会ったり、立ち寄ったりすることが生まれたのか。地域の中をめぐる動きが変わったのか。
そこまで見ていくと、自動運転バスは単なる技術の実証ではなくなる。
移動と歩くこと、そして街の厚みをどう組み合わせるか。移動中の時間をどう感じてもらうか。どこで降り、どこを歩き、どこで過ごすか。自動運転バスを、地域の移動文化や回遊を試す機会として捉えられるのではないだろうか。
バスに乗って、目的地に着いて終わりではない。バスを降りて、少し歩いてみる。道中で何かを見つけ、誰かと出会い、また別の場所へ向かう。そういう回遊が生まれるなら、移動そのものの意味も変わってくる。
豊岡演劇祭と、町をめぐること
豊岡演劇祭のことを考えると、この問いはさらに広がる。
演劇祭を見に来た人が、会場だけを訪れて帰るのか。それとも、会場から町へ出て、歩き、食事をし、地域の人や風景に触れるのか。移動の仕組みは、来場者を運ぶだけでなく、町をめぐるきっかけにもなりうる。
もちろん、バスを走らせれば回遊が生まれるわけではない。降りた先にどんな場所があり、そこからどんな道中が続いているのか。その地域らしい過ごし方を、交通と一緒に考える必要がある。
街の厚みが残っている場所は、その厚みを生かして歩く人を受け止める。厚みが薄くなった場所では、残っているものをつなぎ、小さな「真ん中」と、その周りの歩きたくなる範囲をつくる。どちらの場合も、交通だけを切り離して考えることはできない。
バスの先に、どんな町をつくるのか
自動運転バスが走る。その先に、どんな町をつくるのか。
それは、バスの速さや新しさだけでは決まらない。人がどこへ出かけ、どこで降り、どんな道中を歩き、どこで立ち止まるのか。その積み重ねの中に、これからの町の姿があるのだと思う。
「何もない」と思われている場所にも、木陰をつくり、人が集まる小さな真ん中をつくり、そこへ向かう移動を整えることはできるかもしれない。かつての街の厚みをそのまま取り戻せなくても、歩いて過ごせる小さな範囲を育てることはできるかもしれない。
自動運転バスが走ることを、技術の到達点だけで終わらせない。
移動の先に、人が出かける理由があるか。降りたあとに、歩きたくなる道中があるか。町をめぐることが、地域の人にも訪れる人にも楽しみになるか。
豊岡演劇祭のような人の流れともつなぎながら、そんな移動の文化を試していく。自動運転バスが地域に残すものは、走行実績だけではなく、町をどう歩き、どう過ごすかという新しい習慣なのかもしれない。
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