私は若い頃から、日本語には主語がない、あるいは主語を明示しなくても成立してしまうことに違和感を持ってきた。その違和感は、単なる言語の特徴ではなく、日本の社会や政治のあり方とどこかでつながっているのではないか、という感覚として残っている。
20代の頃、私は政治学を学びながら、近代日本のあり方について考えていた。そのとき浮かんだのは、日本語の構造が、人々の思考や受容の仕方に影響を与えているのではないか、という仮説だった。
入院生活のなかで読んだ戦前・戦中の庶民の日記には、状況を冷静に見つめる記述が確かに存在していた。それにもかかわらず、大きな異議として現れることはなかった。このことをどう理解すればよいのか、長く考え続けている。
結果として、天皇制という日本の立憲君主制は、日本語を話す人々にとって、受容しやすい言語空間のなかにあったのではないだろうか。
さらに考えてみると、日本語の特徴は主語の曖昧さだけではない。物語における「場」のあり方もまた異なっているように感じる。物語の場を俯瞰する視点は、日本の作品にはあまり見られない。物語の場は上から与えられるのではなく、書き手に内在するものであり、それが共有された幻想のなかで立ち上がってくる。
こうした「俯瞰なき空間」は、現代のネット環境、とりわけ動画やSNSの空間ともどこか似ている。そこでは、誰が語っているのかは曖昧で、全体を見渡す視点は与えられず、人は断片的な情報の中に没入していく。
もしそうであるならば、日本語的な構造は、日本固有のものというよりも、むしろ現代の世界が近づきつつあるひとつのあり方なのかもしれない。
この仮説については、もう少し時間をかけて、言葉を選びながら考えていきたい。
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