1月5日の朝日新聞(どうも一紙の宣伝になっているような感じで気が引けるが)の「脱主流派宣言」という連載記事にいっぱい50分待ちの珈琲を入れてくれるお店の話が出ていた。記事はこちらにあるが、バックナンバーなので、全文を読むには普通の珈琲代ぐらいがかかる(記事を写真でアップするのは、学生自体、物書きになりたいと夢想していた頃もあり憚れる—今は、ブログすら駄文であるが)。

その喫茶店は、大阪の八尾にあり、マスターは、20代は、中原中也に傾倒した文学青年とのこと。「日本一うまいコーヒーを出したい」から始まったらしいが、味を追求するため全国をバイクで行脚して、抽出時間に注目したそうだ。

時間を作って、その珈琲を一杯飲みに行きたいと思った。開店は、朝の6時半、ラストオーダーは午前1時半とのこと。
マスターは、お客さんのいないときは思索時間で、詩や小説を書かれているそうである。

学生時代を京都で過ごし、喫茶店では、一杯の珈琲で2、3時間も居座ることはざらであった。時間は、あっという間に過ぎ、他愛の無い話から、青臭い政治談議や哲学談議、隣の人の話を小耳に挟みながら、物書きネタを探していたような20代を、新聞記事を読んで思い出したりもした。そのころは、珈琲の味もわからず、恋も知らず、人生(未だに人生なんぞはわからないが)も知らずであった。今なら、50分の抽出時間をゆったりと待って、珈琲の味が少しわかるような気がする(加齢による思い込みかもしれないが)。50歳では、まだまだと言われたいと思ったりもするが・・・